同僚の日系ブラジル人たちとの暖かい交流

ブラジル人同僚との楽しい思い出がたくさんあります。

私は今年で33歳になりますが、20代前半から後半にかけてに三重県に住んでいた時代があります。この話は、28歳の時の職場で接した日系ブラジル人の方々の話になります。

その当時の職場には、日系ブラジル人が多く働いていました。

その会社はパソコンやハードディスクに使う精密な電子部品を作っていたのですが、その精密部品を作る製造現場で働く人らのほぼ8割が日系ブラジル人の男性でした。

日系ブラジル人の女性は、品質管理の仕事をしており、精密部品を顕微鏡で検査したり、社内基準に達しているかを確認するというのが主な仕事でした。

私は品質管理で、不具合品がどのような原因で発生していたのかを調べるチームにいたので、日系人の男性が働く製造の現場にも何度も出向いて作業の確認をしたり、再度発生しないための対策を考え、提案をするという作業もしたり、どのような内容の不具合品が出たのかを調べ、改善する仕事もしていたので、品質管理で働く日系人の女性とも頻繁にやり取りをしていました。

私が仕事に慣れるまでは、文字にしてしまうと伝わらないときもあり、そういった場合は図を書いて説明したり、日本語のわかる方を介して、作業の内容を依頼したりもしました。

慣れてくると、私も片言ながら、ポルトガル語を使って説明できるまでになりました。

私が接した日系ブラジル人の方々の性格として、とてもアットホームであり、とても明るい人が多かったのを思い出します。

そして、責任感は日本人よりもあり、しっかりした仕事をしてくれ、何度も仕事で助けてもらいました。

例えば、ブラジル料理専門店に呼ばれて、忘年会をしたり食事会をしたり。はたまたどこで知ったのかわかりませんが、私の誕生日プレゼントを用意してくれたときには、一人暮らしをしていた自分にとっては、私が子供の頃、両親かや兄弟らお祝いされたときの包み込んでくれるような気持ちにしてくれました。

その誕生日プレゼントは、マンボウのキャラクターの付いたZIPPOと吸殻セット・システム手帳と私の好みのものであったのも嬉しかったです。

実家の都合で仕事を辞めるときに、彼らに会いに行き、報告したときの残念がっていました。

そして、今までお世話になった方々にお礼にハグすることくらいしかできませんでした。

今でももっと別な形のお礼の仕方もあったと思いますが、もし彼らと再会出来るならば、ブラジル料理のお店で食事会でもしてみたいなと思っています。

食事の問題を克服して求婚されたが

イラン人に求婚された体験。

私の友人が、イランの人と交流があったことがありました。その友人は、看護師として病院で働いていて、その病院にはいろいろな外国の人が研修生として働いていたのです。そしてそのイランの男性も、その医師の研修生として、その病院で働いていたのです。

そのため、英語はできたのですが、日本語を話すことができないため、英語で話して一緒に仕事をしていたらしいです。そして一緒に仕事をすることが多くなり、その男性と友人のように、プライベートでも一緒に行動をするようになったのです。

そしてある日、いつものように食事をしようということになって、あるお寿司屋に行ったときのことです。そのイランの医師は、魚介類を食べることができなかったのです。肉は食べることが出来ていたらしいのですが、魚介については、生で食べることができずに困っていたということです。

その時、友人は食事の文化を知らずに、そのお寿司屋に誘ったことを、とても後悔をしたようです。
その後は、お寿司の下の寿司飯は食べることが出来るので、その寿司飯を食べて、時間を過ごしたということでした。

私はその話を聞いたとき、食事のことについては、本当にいろいろな文化があるので、そのことを知らずに誘ってしまうと、相手の外国人に迷惑になってしまうと思ったことでした。私のいろいろな外国人と食事をしたりした時に、そこまで気を使っていないこともあるので、これからは気をつけようと思ったことです。

そしてその後は、ある程度の食に関することが理解できるようになり、その外国人が好きな食事を選択して、でかけるようにしたようです。その事は、そのイランの人と楽しい食事の時間を過ごすためには、とても大切なことであると思っています。

その後は、とても仲よくなり、そのイランの人に結婚を申し込まれたのでした。しかし、文化の違いや、いろいろなことについて、不安があったので、結婚をすることには踏み切れなかったと話していました。

私はその時、結婚をするということは、その人のことをよく知って、その国のことを知って、そこで暮らす事ができるかということを、しっかりと考えないといけないので、なかなか難しいことであると思った事でした。

インド人のお客さんとの交流

インド人と仲良くなった両親は結婚式に招待された。

空港が近くにできたことで、外国の方をよく近くで見かけるようになった頃、親のしているお店にたまたまインド人のお客さん2人が来たようです。

カタコトの日本語だったようですが、そんなお客さんがいたよと親が話してくれました。その頃私はまだ小学生でしたがよく覚えています。

その後、またお店に来てくれたようで、以前の親の対応がすごく気に入ってくれたようで、また、そのインド人の方は近い日にインドへ帰るとわざわざ伝えに来てくれたのです。

思い出にと、一回自宅に呼んでみんな一緒にご飯を食べようということになり、当日2人そろってきてくれました。

日本でしか食べないような、お寿司やお好み焼き、お酒も日本酒や日本メーカーのビールなど、喜んで食べて飲んでくれました。

インド人の2人で話すときはたまに日本語じゃない言葉でしゃべっていたので、何を話していたのか今でも気になりますが、お酒も飲んで、インドの歌も歌ってくれて楽しませてくれました。

その後、インドへ帰ったのですが、それから半年くらいして、ハガキが届きました。結婚をするので招待したいという内容でした。3回くらいしか会ったことがないのに、結婚式まで呼んでくれて、親の人柄もあったんだと思いますが、親友になるのに日数は関係ないなと思いました。

行ったことのない国で、急なことだったので、結局行けずじまいですが、その後元気にしてるのかなと今でも思い出したりします。

海外の人とかかわることも、それ以来ほとんどないので、小学生と小さいながら貴重な体験をしたなと思います。

その時は小さかったので仕方ないですが、その後も英語が出来ればもっと海外の人ともっと会話が出来たのになと思うことはありました。

みんなでご飯を食べた時もお互いに通じないことは、インドの方でも英語が出来て、インドの言葉を教えてくれる時に、日本語だとなんて言っていいかわからい時に英語で教えてくれたりしました。

その時は私は理解できませんでしたが、大きくなってから駅で英語で話しかけられたことがあって、道を聞いているんだなとは聞き取れるけど、なんて答えたらいいのかわからないことがあったので、英語は世界の共通語なので、今からでも勉強しなおしたいなと思います。

コンビニでのドイツ人営業マンとの出会い

ドイツの営業マンとコンビニで知り合った体験。

学生時代コンビニでバイトしていた時のこと。そこはビジネス街でホテルも多く、外国人のお客さんも多く来られていました。

その中の一人にいつも缶酎ハイとパックの焼き鳥を買って帰られる白人の男性がいました。レジでお会計をした後はいつも「サンキュー」と笑顔で声をかけてくれるとても感じの良い方で今でもよく覚えています。

ある日仕事に入る前に店の前でたばこを吸っていると、その男性がいつものように買い物を済ませ店の前のベンチでお酒を飲み始めました。

当時私は外国に強い憧れを抱いていたので、その方と話してみたくなりました。英語なんて話したこともなく、英語のテストでいつも赤点だったばかりの私になんであんなに思い切りよく行動ができたかは未だに不思議です。

今ではインターネットなど色々と外国人との出会いの場もあるようですね。

気付いた時には片言の英語で「ハロー」と声をかけていました。向こうも一瞬戸惑ったものの、すぐに「ハロー」と返事をしてくれました。

そこからどこから来たのか、なにしに日本に来たのかなど本当に色々話しました。

彼はドイツから仕事で来ていて医療系の機材の営業をしにきたとのことで、次の日にはもう福岡まで行ってしまうようでした。

一人で日本に来たから話す相手もおらず寂しい思いをしていたらしく、それが嫌で毎日うちのコンビニで買い物をしていたそうです。

拙い英語で一時間くらいやりとりをして、なんとかお互いに楽しくコミュニケーションとっていましたが仕事の時間になり、私はさよならを伝えました。彼は仕事終わりに飲みに誘ってくれましたが残念ながら夜勤だった私はそのお誘いを断りました。

私との他愛もない話を本当に楽しんでくれ、会えてよかったと言ってくれたことが本当にうれしかったです。あれから彼とは会えませんでしたが私のように彼もまたこの時間を時々思い出してくれていたらいいなと思っています。

初恋のブラジル人の女の子の甘い香り

私の育った愛知県は在日ブラジル人がとても多い地域でした。車メーカーなどの工場が多く、出稼ぎでやってくる人が大変多かったのです。家族を呼び寄せている人もおり、そのため小学校の頃からクラスに一人はブラジル人がいました。学校行事としてブラジルの文化を学ぶ交流会も行われ、彼らはごく自然な存在でした。

特に印象に残っているのは、彼らの抜群の運動神経です。同年代の日本人と比べると明らかに体格がいい生徒が多かったのを覚えています。足は速い、筋力も強い、持久力もある、中学生になると運動系のクラブからは引っ張りだこでした。

当然のようにサッカー部に集まるのかと思いきや、意外とバレー、バスケット、文化系クラブなど様々なクラブに所属していたのです。大きな誤解をしてました。ブラジル=サッカーと思いきや、どうやら彼らにとってサッカーが好きなのは当たり前だけど「ソレはソレ」ということだそうです。好きなスポーツはいくつもあり、やりたいスポーツもサッカーとは限らないとのことでした。

しかし、やはり運動神経は大したものです。プロスポーツでも助っ人外国人を呼び寄せる理由がよくわかりました。彼らは各クラブでエース級の活躍を続けます。私も何度か試合を見に行きましたが、よく目立っていたのはブラジル人生徒ばかり。運動音痴だった私は心底羨ましく思っていました。

また、女の子も可愛かったのを覚えています。私の初恋はブラジル人の子です。彼女は何だかわかりませんが、甘い匂いを漂わせた大人びた子でした。今はどこで何をしているのでしょう。思い出すと切なくなります。

思春期の体験というのは人生に影響を与えるものです。おかげで、今も私の好みのタイプの女性はラテン系の外国人です。

アメリカ人牧師夫妻が私を助けてくれた

私は中学生の時、学校へ行けなくなった事があります。その時はいつも家でぐったりと眠っていたり、祖母の代わりに近所のスーパーに買い物に行ったりする程度でした。

その時、小学校の時、時々学校に英語を教えにきてくれていたE牧師夫妻に偶然会いました。
最近の調子を聞かれて、困りながらも、学校にいけていない事などを相談しました。E牧師夫妻は「それなら私たちの教会においで。毎週日曜日に礼拝をしていて、色んな人が来るから」と声をかけてくれました。

この話を母に相談した所、「少しずつ前を向いて進む為には必要なのかもしれないね」と頷き、次の日曜日から私は教会にいってお話を聞くようになりました。

E牧師とその家族は、小さな港町でプロテスタントの教会を二十年以上運営しています。「あそこの年子の女の子二人は、私が担任だった事もあるんだ」と、母が懐かしそうに呟いていた事が印象的でした。

二十年以上も住んでいる為に日本語は問題なく、地域の方とも上手くいっている家族でした。
礼拝も日本語で行われ、日本人以外の町内に住む外国人や、小さな子供を連れたお母さんもいました。

礼拝の後には、皆で昼食をとります。色々な人種や国籍の人が、本当に色々な悩みを抱えて、それに向かって頑張っているのを毎週感じました。無理強いをせず、小さな前進も嬉しそうに聞いてくれるE牧師と夫人はとても優しい人でした。それから少しずつ、私は学校にも通い始めました。

今は大学を卒業して地元を離れてしまいましたが、時々E夫人から「元気ですか?」とメールが届く事があります。

3人目のおじいちゃんはアメリカ人だった

私には母の知り合いの外国人さんがいました。交流センターを通じたその出会いは、私にはとても驚きでした。

彼は日本語ではない言葉をしゃべるおじいちゃんの外国人で、私には3人目の祖父のような存在でした。私が覚えたての英語であいさつをすると「Smart girl!(賢い子だ!)」と褒めてくれました。その彼がなぜ日本に来たのか、知ることになったのはずっと後になってからでした。彼は東京裁判の日本側の弁護団の一員として日本に来た人なのでした。そして、その後日本に住みついたのです。

なぜ日本に残ったのか、日本のどこが好きなのか、なぜ日本の中でも私たちの街を選んでくれたのか…聞きたいことは山ほどありました。けれども、彼にそれを聞くことは叶いませんでした。
中学生になったころ、彼がアメリカへ帰るために引っ越しの準備をしていると母が聞きつけ、最後のお別れに会いに行くことになりました。

10年ぶりぐらいに会うその姿は昔の大きな背中ではなく、細くて小さくなったように見えた姿でした。私たちを見つけると「Hi! Nice to see you again!」ととても喜んでくれました。私は英語が好きでしたが、そこまでうまくスラスラと話すことができず歯がゆい思いのまま別れました。

その彼が亡くなったと知らせを受けたのはそれから1年もしない頃でした。彼のお姉さんから母に連絡が来て亡くなったことを知りました。彼とは話してみたかったことが山ほどありました。今でも小さな私の頭をなでる彼の暖かな手を忘れられません。彼は私にとっていつまでも忘れることのできない3人目のおじいちゃんです。

臆せず話せば世界が広がる

私は外国に対する興味がわいて、外国人とお友達になりたいなぁと強く考えていた時期がありました。そんな時出会った友達は、同じく海外生活に興味があり、英会話を勉強しているという女性でした。

ある日、その友達に連れられて、外国人の方も多く来るというバーに。そのお店のオーナーは日本が話せる方でしたが、出身はオーストラリアということで、私のつたない英語でも、「全然大丈夫だよ」と自信を与えてくれたんです。

その時にバーで知り合った外国人の方とはメールで連絡したり、たまに会ったりしていますが、なるほどと思ったことがあります。それは英会話に自信がなくてもともとなかなか話すことができなかった私でも、逆にたくさん単語であっても話したほうが思いは伝わっていくんだというポジティブな考え方。

英語は世界のあちこちで話されているので、いろんな国や地方のなまりがあるんです。イギリス英語とアメリカ英語は確かに聞き取ると違っているということがわかります。でも、その外国人の友達と交流していくうちに私も日本人が話す英語ではあるし、得意なわけではないけれど、たくさん話してみるということでニュアンスが伝わり、「それはこういうこと?」と相手がフォローしてくれることもあるのです。

怖がらすに話してみることで、外国人とお友達になりたいと思っていた私も実際に友達ができて、一緒に遊んだり、時には日本語を教えることでまたコミュニケーションが広がっています。最初に行ったお店で話してみるという小さな一歩から始まった外国人との交流は自分にとっての世界観が明らかに変わりました。今ではもっといろんな国に行って、さらに自分の視野を広くして生きていきたいなと思っています。

ウォッカは必需品!

ヨガの教室でアイスランド人の女性と知り合い、親しくしています。彼女は夫と二人の息子との四人家族で、お宅に遊びに行ったときに、庭で陰干しされた四枚の寝袋を見ました。

何気無く家族で登山でもしてるのか、と聞いたところ、アイスランドでは一定の年齢になるとたいていの人は自分用の寝袋を最低一枚は持っている、とのことでした。停電や災害が冬にあったとき、凍死しないためで、アウトドアはまったく関係ないそうです。国が違えば自然環境も全然違って、備えるべき対策も違うんだと感心しました。

それと北欧やロシアのひと達はアルコールに強いと感じます。アルコールを必要とする理由も目から鱗でした。

アイスランド人の友人繋がりで、ノルウェーとロシアの人達とパーティで知り合ったときのことです。彼ら彼女らがウォッカを水のように飲んでいて驚愕しました。ショットで何杯もです。酒といったらウォッカなんだそうです。ビールやワインは喉を潤すための水やジュースのようなもので、酔うための本当のアルコールではないそうです。

アルコール度数の高いウォッカを飲めば、寒い冬でも体がポカポカ温まるから、嗜好品ではなく必需品だと言っていました。そのなかの一人は、雪害で家に閉じ込められたら寝袋とウォッカで生き残るつもり、と力強く笑っていました。

そんな国民性なので、アルコール中毒症は社会問題になっています。国も対策をこうじるようですが、絶対に無理、無駄、とその場のメンバーは笑っていて憂いの欠片もありませんでした。
いろいろな意味で国の違いを実感して興味深かったです。